「ありがとう」は、いつも渡しそびれる ― 敬老の日に、言葉を贈るという小さな習慣
- 西園寺ケン

- 10 分前
- 読了時間: 6分
プレゼントは決まったのに、なぜか落ち着かない
九月になると、敬老の日のことがふと頭をよぎります。おじいちゃん、おばあちゃんに何を贈ろう。あるいは、いつもお世話になっている親に、今年は何がいいだろう。
お茶菓子がいいかな、少し良いお茶にしようか、それとも欲しがっていた品を選ぼうか。あれこれ悩んで、無事に贈り物が決まる。それなのに、なぜか心のどこかが落ち着かない。そんな経験はありませんか。
その正体は、たぶん「言葉」です。モノは選べたのに、いちばん渡したいはずの気持ちを、まだ渡せていない。
敬老の日というと、どうしてもプレゼント探しに気持ちが向きます。けれど、贈られた側にたずねてみると、いちばん心に残っているのは、意外なほど「言葉」だったりします。今日はこの、渡しそびれやすい「ありがとう」というひと言について、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
高齢の女性が、届いた手紙を両手で持ってやさしく微笑んでいる、明るいリビングの情景。穏やかで温かい光
近い人ほど、感謝は言いそびれる
不思議なもので、感謝の言葉というのは、相手が近いほど言いにくくなります。
コンビニの店員さんには「ありがとうございます」とすっと言えるのに、毎日ごはんを作ってくれる家族には、なかなか言えない。それは、心がないからではありません。むしろ逆で、あまりにも近くにいて、あまりにも当たり前になってしまったからです。
「言わなくても、わかってくれているだろう」
そう思った瞬間に、言葉は口の奥にしまわれます。そして、しまわれた言葉は、たいてい二度と出てきません。次の機会があるはず、と思っているうちに、月日だけが過ぎていきます。
けれど、考えてみてください。わかっているつもりのことでも、はっきり言葉にされると、人はやっぱり嬉しいものです。「大切に思っているよ」と態度でにじませるのと、声に出して「ありがとう」と伝えるのとでは、受け取る側の温度がまるで違います。
言葉にすることは、決して安っぽいことではありません。むしろ、面と向かって伝えるのは少し照れくさくて、勇気がいります。その照れくささを乗り越えて渡すからこそ、言葉は特別な贈り物になるのだと思います。
スマートフォンを耳にあて、笑顔で電話をしている中年の女性。窓から明るい光が差す室内、清潔感のある雰囲気
「ありがとう」の解像度を上げてみる
とはいえ、ただ「ありがとう」とだけ言うのも、少し味気なく感じるかもしれません。そんなときは、感謝の「解像度」を上げてみるのがおすすめです。
つまり、何に対してのありがとうなのかを、具体的にひとつ添えるのです。
たとえば「いつもありがとう」ではなく、「小さいころ、風邪をひいたときに作ってくれたおかゆ、いまでも味を覚えているよ。ありがとう」。あるいは「元気でいてくれて、それだけで嬉しいよ」。
具体的なエピソードがひとつ入るだけで、その言葉は「誰にでも言えるあいさつ」から「あなただけに向けた言葉」に変わります。受け取った人は、自分のしてきたことがちゃんと相手に届いていたのだと知って、深く心が温まります。
大きな出来事でなくてかまいません。むしろ、当たり前すぎて本人も忘れているような小さなことを覚えていてもらえた、というほうが、じんわりと嬉しかったりするものです。
伝え方は、暮らしに合わせて選べばいい
「ありがとう」を伝える方法は、ひとつではありません。自分と相手の暮らしに合った形を選べば大丈夫です。いくつか、身近な方法を挙げてみます。
ひとつめは、手紙やハガキです。手書きの文字には、その人らしさがそのまま残ります。上手な字である必要はありません。少し不格好でも、自分の手で書いた数行のほうが、印刷された立派な文章よりずっと心に届きます。書いたものは形として残るので、寂しいときに何度も読み返してもらえる、という良さもあります。
ふたつめは、電話です。声には、文字にはのらない温度があります。用件がなくても「元気にしてる?」から始めて、最後に「いつもありがとうね」とひと言添える。それだけで十分です。長電話が苦手なら、短くてかまいません。声を聞かせること自体が、もう贈り物になっています。
みっつめは、写真です。孫の写真、家族の近況、自分の暮らしのひとコマ。離れて暮らしていると、相手の日常はなかなか見えません。写真を一枚添えるだけで、「元気にやっているよ」という何よりの報告になります。裏に短いメッセージを書けば、それだけで立派な便りです。
そして、いちばんシンプルなのが、直接会って言うことです。もし会いに行ける距離なら、顔を見て「ありがとう」と伝える。照れて言えなければ、一緒にお茶を飲むだけでもいい。同じ時間を過ごすこと自体が、言葉にならない感謝の形だからです。
どの方法にも、正解も不正解もありません。大切なのは、完璧を目指して結局何もしないより、不格好でもいいから何かひとつ渡してみることです。
テーブルの上に並べられた家族写真とハガキ、その横に湯気の立つお茶。ぬくもりのある静かな情景
当たり前にそばにいてくれる、という奇跡
私たちは、暮らしを支えてくれているものほど、その存在を忘れがちです。
蛇口をひねれば水が出ること。スイッチを押せば明かりがつくこと。それらがあまりにも当たり前だから、ふだんは意識にのぼりません。けれど、ひとたび止まってみると、どれほど支えられていたかに気づかされます。
人との関係も、これによく似ています。いつもそばにいてくれる人、電話をすればいつでも出てくれる人、帰る場所を守ってくれている人。その存在は「あって当たり前」になりやすく、だからこそ感謝の言葉を忘れてしまう。
でも、当たり前にそばにいてくれることは、本当は当たり前ではありません。長い年月をかけて、誰かが誰かを支え続けてきた結果として、いまの「当たり前」があります。それは、目には見えないけれど、確かに暮らしを支えている大切なものです。
敬老の日は、その見えない支えに気づき、言葉にして返すための、ちょうどいいきっかけです。感謝は、気づいて、伝えて、そしてまた次の誰かへと巡っていくもの。あなたの「ありがとう」を受け取った人は、きっとその温かさを、また別の誰かに手渡していきます。小さなひと言から、感謝は静かに循環していきます。
縁側で高齢の男性と孫が並んで座り、一緒にお茶を飲みながら笑い合っている、やわらかな午後の光の情景
おわりに ― 今日、ひと言だけ
立派なプレゼントを用意できなくても、大丈夫です。気の利いた文章が書けなくても、かまいません。
「いつもありがとう」
そのひと言を、今日、渡しそびれずに届けてみてください。電話でも、手紙でも、直接でも。方法は何だっていいのです。
モノはいつか使い終わりますが、心に届いた言葉は、ずっと残ります。それはきっと、今年いちばんの贈り物になります。
そして願わくば、この習慣が敬老の日だけのものになりませんように。「ありがとう」を渡すのに、特別な日を待つ必要はないのですから。



